SONY ノイズキャンセリングヘッドホン

HSPであると最近自覚した私にとって外の音を

いかに遮断するかが結構な重要なポイントである。

 

例えば、通勤、道路、工事現場の音、食洗器や洗濯機の生活音など。

 

これらをすべて取り除くには、耳栓orノイズキャンセリング機能付きのヘッドホンとイヤホンが本当に欠かせない。

 

基本的に耳栓でいいと思っています。

ただ、耳に入れっぱなしにしておくと、割と炎症を起こしたり、かゆくなりますので、ヘッドホンがおすすめです。

 

いまなら、このヘッドホンがおすすめ!

値段が税込30,000円を下回るものを見かけたら買いです。

 

www.sony.jp

父親と向き合う話、悩んだら正面からぶつかろう

職業病だ。

商談前のシミュレーションのように、

想定問答やシチュエーションを考えてしまう。

 

行きつけのバーテンダーの言葉がよぎる。

 

別の悩み事を聞いてくれた時だが、

「迷ったら、正々堂々、正面切って、ど真ん中」

 

文字にしたらなに言ってんのかよく分かんないけど、

ようは小細工しない、

うまくやろうとしない、

正直に話す、

というわけだ。

 

よし、今回もそれで行こう。

 

「決算書を見せてもらう」

「この事業をどうするか意向を聞く」

 

この2つをしようと決めた。

なんのことはない、仕事と同じだ。

 

 

「明日いるか?話がある」とラインした翌日、車を飛ばして、いざ実家へ。

 

お茶をすすりながら30分程度経ったろうか、言おうと思った。

なかなか言えなかった。

もしかしたら開けてはいけない箱かもしれない、

親父とは言え嫌がるかもしれない、など憶測が飛ぶ。

 

「逃げるんじゃない」と自分に言い聞かせ、

「あのさぁ〜・・」と切り出した

 

 

 

「コロナの影響は出ていないのか」

「経営は大丈夫なのか」

「素直に心配している」

「自分のキャリアの原点は実家が商売をやっていることだから、いまの仕事をしている。」

「おれも兄貴も心配している。」

 

親父は嬉しそうに「そうか、おまえら心配してくれてんのか」「そうかそうか、ありがとう」と言った。

 

「もし嫌でなければ、決算書見せてくれ。出来れば過去のものも全部」

 

「いいよ、事務所にあるからこっちこい。」

案外あっさりしてた。

 

移動中、一番聞きにくかったことを聞いた。

「兄貴もおれも違う仕事している。家族もいる。住む家も持ってしまった。生活がある。

それはつまり、事業を継がない、継ぐにしても形を変えないといけない、

継ぐということが現実的ではないということだ。

親父はどうすんだ、この事業。」

 

 

「ぃゃ、廃業だよ」

さっきまでニコニコしてたのが一気に真顔になった。

 

これ以上聞けなかった。

 

そうこうしてるうちに事務所についてしまった。

 

 

「決算書はここにあるから。昔のはあっちにぜんぶ置いてある。」

 

 

 

父親と向かいあう前の不安

様々な業界にコロナの影響はある。

 

当然、零細企業である我が家も同様だ。

 

社会にでて10年以上経つがまさかこんな形で向かい合うことになるとは。

 

「お店に人が来ないのよね。」

 

お袋のLINEで胃袋がギュッと収縮し、胸あたりが重々しくなった。

 

素直に大丈夫か?と心配になった。

メンタルもそうだけど、経営として大丈夫なのか、と。

 

「ついにやばい。」

 

本気でそうおもった。

 

 

しかし、事業として今どうなっているのか、想像できない、推測すらできない。

 

この時に思ったのだ。

「おれ家から逃げている」と。

 

言葉では

「中小企業のために!」とか

「両親と中小企業の経営者がダブるんですよね!」とか

「息子さんとよく話さないといけませんね!私は息子の立場だからよく分かるんですよ!」とか

「法人の役にたてるということがやりがいです!」

とか言ってたりするけど、

ホントのとこ、どうなんだっていう。

 

つまり、

「人様の経営アドバイスだ、承継アドバイスだなんだ、と言う前に、お前の家のことはどうなんだよ。」

 

「事業をしたこともないお前になにができるんだ」

 

「もしコロナによって困ってたらなにかい?助けてくれんのかい?稼いでくれんのかい?」

 

と、豪速球で脳内を自問自答が飛び交った。

 

悩む必要はなかった、そして妻に言った。

 

「おれ実家いって来るわ。親父とサシで話してくる。」

 

「ふーん、あそ。1人でいってね」

なんとも冷たい返事はさておき、

言ったものの、どう話そう。。。と悩む。

 

 

fitbitによる体調管理、安静時心拍数

私にとって出社は疲れる事らしい

 

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今月の出社日に合わせて安静時心拍数は上昇している。

下がっているのは休日や自宅勤務日。

 

これが長続きするようならば、もっと上がっていくだろう。

 

出社をしない、という職業の方がどうやらいいかもしれない笑

 

さて、体調管理、という点でいくと、

まさにここがポイントで

 

上昇しているから「休もうかな」とか

「運動してリフレッシュしようかな」

と明確にわかることです。

 

現にさっき「なんか疲れたなぁ、今週。休みたいなぁ来週。」心の声が出ていた。

こういうとなんか嘘くさいが身体は正直なようで。

とりあえず有給残数確認しましたが、

「後に取っておこう」と判断しました。

 

こうやって働き詰めになり、

休むタイミングを逃し、

仮に運動など他リフレッシュをしないと、

私の場合は見事に心身共に負荷がかかるようです。

 

https://www.fitbit.com/jp/charge4

 

fitbit charge4出てるけども、3で十分じゃないかなぁ。

 

ランニングが習慣の人にはうってつけかも。GPSついてるし。

 

 

以上、カズキでした。

 

fitbitマンにスポットライトが当たりますように。

 

悲観は気分、楽観は意思

「悲観は気分であり、楽観は意思である」

 

営業中に凹んだ時に声をかけてくれました。

 

この言葉は、幸福論を著した哲学者アランの言葉です。

(ということを調べて知りました笑)

 

モノは考えよう、ですね。

経営者の父と向き合おうとする話、前段階②

私の実家は商売をやっている、

今思うと「普通の家ではないこと」を

小学生当時はステータスに感じていた。

 

家はお店とつながっているのでお客さんの往来が激しく、

祖母祖父、両親ともに地元で過ごしているので、友人の往来も激しい。

 

知っている人、とはいえ、

他人の往来が多いわけだが、

取引先とかそういう堅苦しい距離感はなく、

「よく来るおじちゃん、おばちゃん」がいる、そんな感覚だった。

 

 

そういう環境にいると、

これはうまく表現しようもないのだが、

普通のサラリーマン家庭、

というものが全く想像できなかったのだ。

 

目の前で両親が働いて、祖父母は農作業でセカンドライフ満喫。

仕事場がら目の前に広がってて、

顧客対応から銀行商談、真剣な話や黙々と事務作業は個室で。

 

サラリーマン=ペコペコ頭下げてるイケてない人

くらいにしか考えてなかった。

(電車通学だったが、田舎だからか、うだつの上がらなそうなおっさんサラリーマンしかいなかったから、というのもあるかもしれない)

 

その感覚のまま、大学生になった。

だから大学生になっても「起業する!」という言葉のカッコよさに惹かれて何も考えず

「サラリーマンになるなんてダサい」と思ってた。

「大企業なんて歯車におれがおさまるか!」なんて中二病全開だった。

 

その感覚のまま、3年生になり、

真剣に考え始めた。ちょっとずつだが。

 

その時にようやく

「将来経営したい」

「将来のために経営に近い立場で仕事して修行がしたい」

「親父のような中小零細、地場の企業の経営者を助けてあげたい」

 

そんな思いが自分にあることを再確認した。

たぶん元々思っていたのだろうけれども、

インターンベンチャーの選考などを通じて、言語化出来てきた、

というのが正確なところだとおもう。

 

当時考えていた就職

どこでもいいからベンチャー企業

資格勉強で税理士目指す

とりあえず起業してみる

大企業に勤めてみる

 

というなんとも雑な選択肢だった。

 

友人の

「今しか選択できないカードって、何?

それって新卒というカードでしょ。」という一言で就職活動してみることに。

 

蛇足になるが、

「中小、ベンチャーはいつでも行けるし、

勉強だっていつでもできる、起業だってそう。

けど、大企業へ転職できるかもしれない、

ただ実力を備わってないと希望なんて通らない。

だから実力もないのにポテンシャルで大企業に入れる、というカードは貴重」

という意見だった。

 

そこからベンチャーインターン、1Dayも含めて回り、説明会、座談会に顔を出すようになった。

 

ベンチャーのラフでやりたいことやってる感が好きだったし、

大企業の堅苦しいというか・気の抜けた感じが嫌いだった。

 

そんな活動を数ヶ月している中で衝撃を受けた。

コンサルタント、という職業だった。

 

1人は人材コンサルタント、今もいるかどうかはわからないけど、アチーブメントという会社の人だった。松岡修造みたいな人、と思えば良いだろうか。

(何人かやり取りしたが、ぶっ飛んでると感じたのはその人だけだった。)

 

そこで感じた事は、

「なんだ、サラリーマンにもこういう熱く働く人って存在するんだ!働くならこんな感じで熱く働きたい!」

 

と自分のガチガチの固定概念が少し崩れた瞬間だった。

 

もう1人はIBM出身の元コンサルタントで、ベンチャー経営者。

頭の切れ味(そもそも私にそれはないのだが、当時はあると思ってた)や

勉強量・知識量・パフォーマンス含めてアウトプット、勝ち目がないと感じて、

社会人と会って感服したのは初めてだった。

「こんな人になりたい!」と思えたのも初めてだった。

 

 

経営の立場で、

がむしゃらに働く姿

そんなコンサルタント、という職業にあこがれをもった。

(結局、どこも受からず、あまりにしんどくて就活中断して引きこもりになったわけだが笑)

 

経営者の父と向き合おうとする、前段階

私は中小企業のゆりかごから墓場まで支援できるようになりたい、

そう思ってキャリアをスタートさせました。

 

幼少期の体験が刷り込まれているような気がする。

 

目の前で商売している姿が当たり前で、

お客さんの往来があり、

仲の良い職人さんや近所のおじちゃんおばちゃんたちが

ちょっとお茶飲んで帰っていく。

 

夜は夜で、問屋さんが夕飯を食べて泊まってから新潟へ帰っていく(または関東で営業していく)、

取引先の人が親父と酒を酌み交わし、

難しくも和やかに食事をする。

昔からの友人の場合は賑やか過ぎて、絡んでくるから子供ながらに勘弁して欲しかった。

 

 

そんな日常風景が小学生くらいから「他の家とは違うのだ」ということを理解し、意識し始めた。

 

「家を継ぐことが将来の夢だ!あと、大工さん」これが1.2年生くらいのことだったと思う。

 

高学年に近づくにつれて恥ずかしさも出てきたけれど、どこか胸の奥に仕舞い込むようになった。

 

つまり他の家との比較をすることで、

「普通と違う」「商売をしている」という違いが低学年のうちは誇らしかったのだ。

 

しかし、高学年になるにつれ、胸の奥にしまったのは恥ずかしさからだけではない。

 

「あれ、うちはそんなにお金がある家ではないのではないか」

「(当時はこの言葉は出なかったけど)儲かってないのではないか」

「なにかがおかしい、なにかが昔と少し変わっているような気がする」

 

そんな風に肌で変化を感じるようになっていった。

大人が発する「フケーキ」

その「フケーキ」の雰囲気を感じ取り、

明らかに両親の不仲を感じ取り、

家に来る人が少なくなっていった。

 

今でも強烈に覚えていることがある。

夏の夜、8時くらいだったと思う。

両親が明らかに神妙な面持ちでざわついている。

母親は「部屋に上がって寝てなさい」と促す。

※結局は気になって寝られず起きてきてしまったのだが。

 

昔馴染みの工務店さんが来ていて親父と話していた。

年は50くらいで、髪はくるくる、漫画家のぐわしっ!てやる人みたいな感じ。

 

工務店のおじさんが頭を下げ、神妙な顔をして話をしている。

 

さすがに会話の内容までは詳細に覚えていないが、

親父に諭されているようなそんな風景だった。

 

大の大人が申し訳なさそうに、

普段の賑やかな雰囲気とも違うシリアスな

その風景も印象的だったが、

もう一つ印象的だったのは帰り際だった。

 

帰り際、母親に向かっておじさんが謝ったのだ。

「ごめんなぁ〜、、、●●ちゃん(母親の名前)おれ頑張るから」そんなことを言っていた。

 

その姿が幼心にとても痛々しかったのだ。「大の大人が情けない」そういう印象だった。

 

しばらくして、

そのおじさんが夜逃げをした。

 

自転車でその人の家の近くを通ったけれど、もぬけの殻だった。

 

あの日のおじさん姿、

つまり、

母親に頭を下げて、

眉毛を八の字にして、

気まずそうにペコペコするおじさんのイメージが今も残っている。